宮城県名取市を訪れた翌日である2013年3月13日、岩手県陸前高田市と宮城県気仙沼市を訪れました。このエントリーは陸前高田市の様子をおさめたものになります。写真の数が多いので、少しずつ、出来る限り客観的に状況説明を加えていくことにします。
陸前高田市へは、いまだに大船渡線が一部不通のため、気仙沼駅から大船渡線の仮復旧として運行が開始されたばかりのBRTで向かいました。BRTとは本来専用道路を通行するバス路線のことを言うのですが、大船渡線BRTは一般道を走行するので、路線バスとあまり変わりがありません。
陸前高田駅は震災前まで沿岸部にあったのですが、現在は高台に移転した陸前高田市役所仮庁舎の前が駅になります。しかし、陸前高田市役所周辺には商業施設がないため、昼食を現地でとるためには1キロほど先の地区まで谷を越えて行く必要がありました。
商業施設の多くは仮設でしたが、沿岸部で津波の被害にあった店舗が多く集積しているようです。スーパーマーケットの前に用意された休憩所に、近所に住んでいると思われるお婆ちゃんが何十人もいたことが印象的でした。
別の谷の方へ降り、使われなくなった線路を横目に気仙川に沿って平野部へ降りていくと、徐々に津波や地震の被害の痕跡が現れてきます。平野部は一部に人の手が加わった痕跡が見られるものの、殆どが荒れ地と廃墟でした。
市の中心部だった方へ向かいます。平野部の線路は撤去されたようで、枕木で花壇が作られていました。また3月11日の2日後であったためか花束がありました。道路がめくれたり隆起したりしたままの場所が目立つようになってきます。
中心部であった地区では残っていたビルの解体が進んでいました。重機とトラックが目立ちます。あとから調べて知ったのですが、所有者が希望すれば国が解体費用を支出すことになったようで、この時点で見えていた建物も、その多くが震災から2年を経て解体されるようです。旧陸前高田市役所などは既にありませんでした。
そんな中、強く印象に残ったのが「米沢商会」と書かれたこのビルです。写真では判りにくいかもしれませんが、建物の上の方に青い看板で「忘れないよ みんなと暮らしたこの町」とあります。また更にその上の煙突部分には「2011年3月11日 東日本大震災 津波到達水位」とあります。
これも後から調べてわかったことですが、こちらのビルの所有者の方は津波が押し寄せる中、この煙突にしがみついて助かったそうです。地上からの高さは14メートル。想像以上の高さに衝撃を受けます。所有者の方はこのビルを解体せず残される意向だそうです。
沿岸部に行くため、瓦礫置き場になっている駅前地区を横切り、小さな川を渡ります。小さな橋ですが欄干がちぎれるようにへし折られていて津波の力の凄まじさを感じさせます。周囲は荒れ地になっています。
踏切だったところを渡って沿岸部に向かっていきます。印象的だったのが、踏切であった場所で工事車両が一時停止を必ずしていたことです。踏切部分を除いて線路は撤去されているので、一時停止をする必要はないはずですが、気づいたときにハッとさせられました。
一方で反対車線の隅にいる私に向かってアクセルを踏みながらハンドルを切り、脅かすような挙動をするトラックもいました。周囲を見ないで撮影して回る被災地観光の人が多くフラストレーションがたまってるのかもしれません(実際、平日の昼間にもかかわらず多くの観光客を見ました。復興と観光の関係の難しさを感じます)。
さらに進んでいくと多くの商店があった地区にさしかかります。津波被害の痕跡が生々しく残ります。
沿岸部に着き、海沿いを歩いて行きます。道の駅をはじめ多くの施設があったようです。どの施設も大きな被害を受けています。一方この日の海はとても穏やかでした。
有名な一本松です。ひっきりなしに観光客が訪れていました。周囲は手つかずのままです。報道でご存知の方も多いと思いますが、枝を取り付ける向きを誤ったそうで、このあと再び枝を付け直すそうです。
一本松を離れ、気仙川を渡り対岸へ向かいます。仮設の橋を渡って行くのですが、横に流された橋の橋桁が残ります。引っかかったままの布団でその大きさがわかるかと思います。対岸には気仙中学校だった建物が残っていました。実際の中学校は仮設の校舎に移っても、地元の人にとってはまだ気仙中学校のままなのだとバス停をみて感じました。
陸前高田市の旧市街地は大きな建物を取り壊している真っ最中だったため、とても砂埃が多くなっていました。一部で盛り土が始まっていましたが、復興への道のりは震災から2年を経過してなおこれからという印象を受けました。
次回は気仙沼市の写真をアップする予定です。よろしくお願いいたします。